懐かしのラジオ
 
48年経った今も 鮮明に覚えている僕の僕たる原点がある
 
僕が高校2年生の時 (1962年 昭和37年)  母が全国開拓婦人会代表でイスラエルへ行った。
 
団長さんは 徳川幹子さんだった。 
 
徳川幹子 
とくがわ-もとこ(1902−1996)
 
 
29年茨城県開拓者同盟婦人部長,30年全日本開拓者連盟婦人部長。 
 
 
母が留守の間の2カ月間 僕が家族の炊事係だった。 4時に起きて
 
釜戸でご飯を焚いて 弟のお弁当を作ってから18キロ離れた学校まで
 
一時間半かかって通った 
 
ある朝居眠りをしていて気付かなかったのだが 
 
かまどから漏れた炎が僕の命の次に大事にしていたラジオをなめていた
 
熱のためにカバーのプラスチィックは ケロイド状に溶け音は出なくなっていた
 
自分の不注意とはいえその惜しさは なまやさしいものではなっかった
 
学校から帰ると どこからとなく音がする 温度が下がってトランジスターが復活した
 
やけどした ラジオをいたわりながらそれから何年か聞いていた
 
当時公務員のお給料が9、800円 ラジオをは10,000円だった
 
近所の伊勢型紙の職人さんが 2~3年聴いたのを 6,000円で譲ってもらった
 
一月380円の新聞配りで貯めたお金を全部使って買った
 
出来るものならもう一度手に入れたい。近所の古道具屋さんにも 頼んで探してもらっているが 
 
未だに知らせは無い懐かしい六角形のラジオを 6TP−604 東芝製だ
 
やっとインターネットで姿だけ検索出来た
 
僕の僕たる原点のラジオをです。
 
哲