守田悦雄 主な歩み・プロフィール
始めに
 小さな町工場から人生スタートをし、甘味植物 ステビアの栽培・普及に成功して、新しい甘味資源の創造と、天然・植物性低カロリー・ダイエット甘味料としてのステビア甘味料の開発・事業化・普及に成功した歩みの中で、いろいろな人々と出会い、理解と協力の基になし得た足跡を抜粋しまとめたものです。

 尚、関係者の所属・役職は全て当時のものです。
1.家業
 食品添加物業界との関わりは、1963年ごろからである。守田化学工業の創業者である父・嘉一と、中高年の男性2名、女性2名計5名で、人工甘味料ズルチンの製造を家業とする仕事を手伝うころから始まった。

 終戦後の砂糖不足から、人工甘味料ズルチン及びサッカリンは、食品甘味料として多用され、特に守田化学工業は営業活動をすることもなく、食品添加物扱い問屋である(株)樋口商会(社長 樋口春男氏)、愛晃薬品(株)(社長 庄司憲太郎氏)、(株)竹中商店(社長 竹中生道氏)等の数社を通じて食品メーカーに販売していた。

 その頃、ズルチンの発ガン性の研究報告が発表されたことから、使用制限が設けられ、いずれ猶予期間後、ズルチンの生産とその食品への使用が禁止になる方向が示されていた。
2.限られた文字だけで評価
 そのため、家業は将来性の全くない、創業者一代限りの商売・事業であり、長男の私がそれを継ぐ様なものではなかったので、大学卒業後、他の業界・道で人生をスタートすることになり、就職活動することになった。しかし、履歴書の書式が今とは異なり、家族・家庭欄があり、家族の氏名 年齢 続柄 仕事 勤務先名 役職等を記入することになっていた。

 この欄に守田化学工業の代表者の長男であることを書かざるを得ないことから、「雇用しても長男だから、いずれ辞めて帰るだろう」と社会勉強・修業的意味合いとして受け取られるか、または「仕事上、辛い事などあれば辞めても帰る所がある」等との理由で断られた。

 就職する理由を書類上記載できず、限られた文字と文字数での表面的な評価だけで、就職することができず、挫折感を味わうことになった。

 余談だが(昨今、就職活動に際して相談を受け、内定率の高い助言・指導をすることが出来るのも、この時期の挫折感と学んだことがお役に立っているようである。)
3.甘いビジネス人生の始まり
 仕方なく1966年大学卒業と同時に、守田化学工業(株)(家業)に就職することになった。中高年の4名と仕事するため、汚い、重い、辛い等の仕事の雑務・雑役を担当することになる。

 建物的にも狭く雑然とし、機械的な設備と云えば、ボイラーと遠心分離機だけで、それ以外特に合理的・効率的に生産するものはなく、バケツと大型の木樽、ガラス製濾過装置程度で、動力的なものは余りない状態であった。

 ボイラーもコークスを燃料とするタイプだから、コークスを割って投入し、常に圧力と燃焼状況を確認しなければならず、朝の8時にすぐ利用できる様にするためには、6時頃からボイラーに火を入れ圧力を上げなければならなかった。

 余りにも大変なのでボイラー技師免許を取り、ボイラーを入れ換え重油バナーにするが、B重油、C重油の安価な重油を使うことから、噴霧量と空気のバランスが悪いと、煙突から真黒な煙が出て、消防署から火事と間違えられ再三注意されることもあった。

 厳しい仕事はいろいろあったが、その中でも、特に塩酸タンクから一定量の塩酸を出す時は大変であった。

 雨降りなどの湿度の高い日は、塩酸ガスは白い霧のように周囲に立ち込み、隣地に迷惑を掛けたものである。今なら大問題でマスコミ報道され、即操業停止大騒ぎになるところである。

 マスクと云えば普通の布マスクだけで、ただ口にマスクをしているが、塩酸ガスの対策にはならず、息を止めてバケツに受けるしかなかった。

 危険物を扱うだけに慎重に受けていると、息を止めているのにも限界があり、バルブを締め取り敢えずバケツをその場に置いて、塩酸ガスのない所まで走って行き呼吸を整え戻り、また塩酸をバケツに受けてそれを手で持ち運び、反応の木の樽に入れると、しばらく塩酸ガスが作業場に充満する…(略)…

 2000リットルの木樽で結晶化したズルチンをバケツで汲み上げるのも厳しい仕事であった。狭い通気の余り良くない場所でするため、新しい白いシャツ服が10日程すると黄色に変色し、生地も破れやすくなった。

 また、サウナのような乾燥室での作業を1時間半近く、乾燥棚に皿を出し入れする作業は、乾燥粉末になったズルチンが飛散し、吹き出る汗に溶けて甘い汗が流れた。

 とにかく製造環境、設備等が最悪と思われる中では、若い人、また一般の人は続かない。そのため、男性2名は親戚関係の人(黒田長治氏、後藤義人氏)であり、自ら、その環境で製造を一緒にすると、頭の下がる思いであった。

 社会人・ビジネスの基本的マナーまた食品添加物知識、人工甘味料とその使用法等を教えられることもなく、また、助言、指導を受ける先輩もなく、ただ、雑務・雑用係的な仕事で一日が終わっていた。

 この様な毎日であるから将来に不安が増すばかりであった。ある時、子供が私の手が甘いと驚いたことがあった。毎日の甘い環境で過ごしていると自然に身体まで甘く味つけされている状態で…(略)…。将に甘い人生の始まりであった。
4.人生・ビジネス試練‐<ズルチンの禁止>
包装資材の廃棄処分
 やがて、ズルチンの使用禁止が現実として迎える日が近づくと、予想以上の返品と関連資材・設備の廃棄処分に追われた。やっと塩酸ガス、暑さ等の厳しい仕事と環境から解放されると思う嬉しさを感じた。(1968年7月 食品添加物指定削除)

 しかし、このままであれば、衰退の一途をたどることになるため、売上高低下の中、ズルチンの製造設備を破棄し、他のサッカリン、サイクラミン酸ナトリウム(チクロ)を原料とした甘味料製剤の企画研究開発と製品化の設備化を図り、その代替の人工甘味料製剤(チクロサン、モリカミン)を製品化した。

 代替甘味料製剤のサンプルは、販売問屋から照会請求があれば提出する程度であった。営業担当がいないため、極めて消極的な事業展開であり、これまでの展開方法の延長である。…(略)…

 この様なことでは、会社が倒産する時期は必ず訪れると思う気持ちが強く生まれ、自らの人生・道は自らが切り拓かないと、誰も拓いてはくれない。人生は自己責任。…(略)…

 今まで製造等の社内雑務・雑役業務だけに携わり、営業経験が全く無く、また、業界知識・商品知識・コミュニケーション能力も無いが、謙虚、素直、反省、感謝、奉仕の五心を大切に、心と言葉と行動を一致させることを実践し、営業に臨んだ。

 そのころ、同業他社でズルチン業界の大手メーカー、極東化成工業(株)(社長 吉本氏)、ツルヤ化成工業(株)(社長 齋藤氏)も甘味料製剤等への転業を図られ、新しい事業展開を始められていた。それに比べ、守田化学工業(株)は企業規模の小さいことから転業したものの人材的にも変らず、問屋からの注文を待つだけの消極的な「待ち商売」であった。…(略)…ただの「待ち商売」では何も生まれない。…(略)…

 この思いで、営業を始めると人との出会い、出会った人に、私のこれまでの歩みを素直に話す。…(略)…出会った人を師と仰ぐ気持ちで動き回った。…(略)…

 全くの営業初心者であることが相手に伝わると、数多くの人が人生・ビジネスの経験談から、助言また厳しく指導いただいたり、さらに取引先まで紹介していただくこともあり、いろいろな方々によって育て、助けられた。

 特に、出会いの中で道徳心の高い、また品性的にも尊敬できる人に対しては、時間を作って異業種であっても教えを請い日参したこともあった。

 時間の経過とともに営業成果も上がり、営業の喜びと、人との出会いが楽しみになり、人生・ビジネスに希望が生まれた。やがて、ズルチンの禁止に伴う損失及び新しい設備投資等に対しても経営体質が改善され、倒産を回避することが出来た。
5.人生・ビジネス試練U
 やっと落ち着き、これから更に頑張って前途を…と思った矢先、突然チクロに発ガン性があると、アメリカで発表された。

 即、マスコミが連日にわたり大きく報道した。チクロは食品業界等において、広範囲に甘味質等で最も砂糖に近いことから、砂糖の代替甘味料として広く使用されていた。私の高校時代に良く飲んだ「粉末ジュース」の甘味料等にも使われ、よく水に溶かして飲んだものだ。…(略)…

 チクロの製造・販売、使用の禁止は、甘味業界及び食品業界にとって、大打撃で守田化学工業(株)も返品が毎日のように続き、大混乱であった。それが原因で食品メーカーの倒産、そして関連倒産も発生し、消費者団体もチクロの発ガン性をきっかけに食品添加物の安全性について積極的な活動を行う様になった。(1969年11月 食品添加物指定削除)

 守田化学工業(株)も非常に厳しい経営の危機を迎える中で、サッカリンだけを原料とした甘味料製剤を開発し、即、営業成果を上げなければ、倒産が現実になることから、必死で営業をした。

 従業員もズルチン製造から甘味料製剤に転業し、売上・利益も落ち込んだので、年齢的にも、又経営上の理由で、永年にわたり頑張っていただいた親戚の人も退職し、中途採用の男性1名、女性1名と社長、私を入れて4名だけとなり、ますます活気の無い会社になった。

 ズルチン時代から社長は財務・経理関係で、その他は、全て私に任せられたかたちになり、専務取締役として経営責任を負う立場になっていた。…(略)…

 一口に必死と云う表現では云えない程の生き残るために自分と・時代と・環境との戦いだった。…(略)…

 その結果、経営危機を乗り越えることが出来、「お前のお蔭で倒産せずに済んだ。有難う」と初めて社長が感謝の言葉を口にしたことを鮮明に覚えている。…(略)…

 サッカリン甘味料製剤は、時間の経過と共に拡販することが出来た。…(略)…

 この倒産回避は、特にサッカリンメーカー育和化学工業(株)(社長 中畑氏、専務 山本好春氏)、大和化成(株)(社長 溝畑氏、中大路氏)のサッカリンの品薄時に、特別な理解と協力が得られ、また、私の甘味技術提案が食品メーカー担当者に評価され、採用いただき、また、新しい得意先を紹介いただくこともあった。

 今、思えば全てに未熟な私が関係者のお蔭で、この突然の危機を乗り切ることが出来たと思う…(略)…

 残されたサッカリンもまた、安全性(発ガン)で使用禁止となり、その後再度使用が許可されるなど、まさに行政被害を受けることになった。

 この一連の出来事は、自分を成長させるために与えられた試練であり、人によって支えられ、生かされていることを実感した。
6.人工甘味料から天然甘味料製剤メーカーへの転業
 人工・合成甘味料に関わっていると、また行政の犠牲になる恐れがあるのではと感じた。

 消費者の立場から考えれば、自然界に全く存在しない化学合成添加物よりも、自然・天然に存在する化学合成以外の添加物・天然に存在する成分を利用した食品を求めることになるだろうと考え、天然原料由来の甘味料に関わる願望が生まれた。食品メーカーに化学合成添加物を販売していることに罪悪感を覚える様になっていた。

 そして、不思議な出会いが生まれた。偶然にも創業者の戦友仲間を探す中で、親戚筋の 小林行郎氏(小林ビル・東京都千代田区)の情報から、植物「甘草」の根から甘草に含まれる甘味成分(グリチルリチン)を抽出精製して、医薬品メーカーに販売している会社との出会いであった。…(略)…

 探していた戦友・青井進氏が社長を努める千代田興業(株)(本社 東京・製造所 三島市)は、食品向けには甘草抽出物を全く販売していないことを知り、これを食品向けに販売することをお願いして提携関係を結んだ。実に、この時期に自分が望んでいる方向・分野の関係者と、極めて早く出会いが有りスムーズに提携できたことに、大変驚いた。

 そして、研究を重ね甘草甘味料製剤の開発・製造(調味糖)販売することが出来た。しかし、甘草甘味料は、甘味の発現性も遅く残味に苦味、不快味を持つため、食品メーカーに甘味技術を提案するが、砂糖またはチクロ等の人工甘味料の代替等の天然甘味料としては、甘味質的にも適していないものであった。

 そのため、その甘味特性が生かされる用途として、塩性食品の佃煮、珍味、漬物メーカーなどで甘味技術提案を行い、高い評価が得られた。…(略)…

 この甘味技術提案と食品メーカーの天然甘味料への関心が高まっていたため、人工甘味料から天然甘味料への企業路線の変更を決めた。甘草甘味料製剤の拡販に伴い、従来の千代田興業(株)一社だけでは、原料 甘草抽出精製物の量的・安定確保が難しくなった。…(略)…

 甘草抽出精製メーカーであり、また甘草甘味料製剤の競合会社でもある丸善化成(株)(大阪営業所所長 高橋氏)、池田糖化工業(株)(大阪営業所所長 田中鶴松氏、藤井善一氏)との個人的信頼関係で、特別に原料供給をしていただき、甘草甘味料製剤を拡販することが出来た。

 この3社のお蔭で、天然甘味料業への転業に成功し、企業路線も確かなものとして、経営の危機を乗り越え、前進することが出来た。…(略)…

 2社は、競合会社に原料を販売いただき、将に「敵に塩を贈る」という企業姿勢に応えるために誠心誠意営業努力し、共存共栄を図ることができた。2社の担当者には心より感謝をした。…(略)…

 人との信頼感、また、その真心に応えるためにどうするか…。特に、この期間は、この関係会社と担当者から学ぶことが多くあった。…(略)…

 このころ、食品メーカー・異業種関係の社長、会長職の方々、また、素晴らしい最高道徳を実践されている方々・モラロジー研究所 枚方事務所 近藤栄一氏(現・枚方モラロジー事務所所属 公益財団法人 モラロジー研究所 社会教育講師)、同研究所 河内事務所 福田重造氏(現・東大阪モラロジー事務所所属 公益財団法人 モラロジー研究所 評議委員会 会長・参与 社会教育講師)等と出会ったことは、私のビジネス・人生において以前学んだことに加えて、更に人間的成長を図ることが出来、人的財産を築くことが出来た。…(略)…

 「出会いは、単に人との出会いだけではない。それ以外の出会いから学ぶことが大切である・・・」「素晴らしい人と出会いその人を慕い、時間を作り、訪ねて、助言・指導いただく・・・」…(略)…

 別の先輩から以前にも言われた「守田君が私を慕って来る以上、色々教える喜び・慕われる喜びを感じ幸せを感じる。そして守田君も幸せに・・・」…(略)…

 「自分の人生は、自分で切り拓かないと誰が切り拓くのですか?」等…(略)…学んだことは限りない。…(略)…

 ご縁を頂いた先、取引先に対する営業活動(訪問)は、1〜2年に1回する程度であったが、取引内容は何ら変わることなく、訪問すると多忙なときでも長時間面談いただくことが多くあり、訪問先を後にするとき感謝の涙があふれる事もあった。

 将に、教えられた出会いから始まった。(成長を求めて新しい出会いを積極的にすること、全ては出会いから始まり、出会いなくしてチャンスなし、というモリタ食材開発研究所の業務訓となっているのは、この教えと実践から出来た訓である。)
7.人生・ビジネステーマ「ステビア」との出会い
 遂に出会いが訪れた。出会いは、人ではなく「活字との出会い」である。自分の関心・興味のある活字は、同じ文字の大きさであっても、目にとまり、大きく見えるものである。…(略)…

 文献に「Stevia Rebaudiana Bertoni」と云う南米パラグアイ原産の多年草植物である」「砂糖の300倍の甘味成分Steviosideが含まれている」等と記載されていた。

 人工・合成甘味料ズルチンは200倍、サイクラミン酸ナトリウム(チクロ)は40倍、サッカリンは400倍であるが、天然植物の中に砂糖の300倍の甘味成分ステビオサイドが含まれている等、半信半疑で読み、兼ねてからの商社人脈を通じてステビアの葉を入手する様にお願いした。

 ステビアの原産・栽培場所は南米パラグアイの奥地であり、原住民は別名で呼んでいたので、入手するまで1年近くかかった。

 初めて「ステビア乾燥葉」を口に入れ驚いて、衝撃を受けた。その頃(1970年頃)甘茶甘味料の企業化に取り組んでいた。甘茶の甘さは醗酵して生成されるが、その甘さの強さよりもさらに強く、乾燥葉そのままでも甘茶の葉よりも凄く甘いものであった。300倍のステビオサイドが相当含まれているように感じられた。

 この乾燥葉を口で噛んでいると、この植物を利用して甘味料の企画開発が出来、その使用用途までが具体的に浮んだ。…(略)…永年、甘味の専門業界で歩んでいたので、専門分野からの展望は容易に出来るものであった。…(略)…

 この不思議な甘い葉を持って、これまでの尊敬する人たちを訪ねると、いずれの人も「良かったナー、守田悦雄と云う人間のために世界の誰もが甘味料としての事業をしなかった・・・」「神様が君のために残された贈物だ・・・」等とコメントされるが、現実として守田化学工業は私一人で会社を引っぱって頑張って来たので、このテーマをするだけの社内体制もなく設備もなく、資金もない・・・」というと、いずれの人も叱る様に君がしなくて誰がするのか等と…(略)…「君は人と云う宝の財産を持っているので、それを使えば出来る。…(略)…
8.ステビア事業・起業化
 全てがなくても出来る方法があることを忘れていた。これまでの人生・ビジネスで学んだ方法を思い出し、「それを実践すれば必ず出来る」と急に不安が無くなり、自信が湧いた。

 この事業をする以上は、日本また世界の新しい甘味資源となり、食品甘味料、また天然ダイエット甘味料として糖害・糖尿病・肥満等の改善と人の安心・安全な甘味料として社会貢献できると確信した。…(略)…

 「心と知を使い行動すれば決して難しくもないと考え、迷いもなくスタートをし、「三方良し(三方善)」ではなく「四方良し(四方善)」を目指してスタートした。
ステビア栽培地1973年9月撮影

 この「ステビア」は、パラグアイの奥地で、一人だけの栽培者(Luis Enrigve Be Gaspeni氏)がいて、野生のステビアを集め、焼畑農法的な小規模栽培をしているだけであった。

 それを現地の「マテ茶」に混ぜていることが分った。その数量も少量栽培であり、永年の在庫として5〜6トンがある程度とのこと。…(略)… この原料を、繁和産業(株)(社長 東代清次郎氏、専務 八木新之助氏、次長 三野吉儀氏、池田典郎氏)、西進商事(株)(鵜川成三氏、下地恵源氏)、(株)トーメン(大阪化学品部 吉田氏、食糧部 荒井氏)の協力を得て、独占確保し、輸入を開始した。…(略)…

 ステビア乾燥葉をエキス化する必要から生薬エキス設備を有する(株)小城忠治商店(現・小城製薬(株)(研究部長 林輝明氏、辻仁孝氏)にエキス抽出方法とエキスの品質等の条件に基づく委託抽出を依頼し、指定する品質のエキス化を行った。…(略)…

 一方、大阪薬科大学で「ステビアエキス」の成分研究が行われ、その報告の中で、「薄層クロマトにおいてステビアエキスによっては、ステビオサイドと異なるスポットに何らかの成分が有るように考えられる」との報告を受けた。…(略)…この定性情報から、ステビアには種々の品種があると推測した。…(略)…

 ステビオサイドと異なるスポットにある物質は、直感的にステビオサイドより甘く良質な甘味成分であると、断定的な考えが不思議に生まれた。…(略)…

 不思議な事に何故、将来的にステビオサイドよりも主流になる低カロリー甘味料となる、と断定したのかわからない。…(略)…

 1971年5月「ステビアエキス」を原料として、食品用のステビア甘味料製品(ステビアロールシリーズ)を世界で初めて企業化・販売した。
9.知的財産戦略(特許関係)
 この甘味物質がステビオサイドよりも優れていることが具体的に知見された。しかも甘さも強く450倍の極めて砂糖に近い味質であり、私の直感で断定した通りであった。…(略)…

 この新規な甘味成分を有効利用し、食品の美味しさ、味の差別化を図るための用途・甘味技術の研究開発を毎日夜遅くまで行い、発明当初の名称は、甘味物質X 又はステビオサイドA3(その後、化学構造式の決定とレバウディオサイドAと命名された)に関連する技術発明をし、数多くの特許を出願した。…(略)…

 特許出願等の知的財産戦略は、食品分野以外のタバコ、線香等の異業種分野にも行った。…(略)…

 知的財産戦略を特許事務所に依頼すると、相当な出願費用となるため、私自身が知的財産に関する出願手続及び権利化までの知識を学び、自らそれを行った。これによって知的財産に対する費用投資が、経営に及ぼすこともなく、将来的な経営戦略に極めて有効な財産となった。…(略)…

 中小企業の知的財産権戦略が、非常に経営上欠かすことのできない戦略である事を、認識したことから、今日、食品メーカー等の経営相談を受け助言・指導する際にも非常に役立っている。私自身実践して、将に知的戦争を勝ち抜く方法を身に付けることが出来た。

 1990年4月に全国発売された大塚製薬の「ポカリスエット ステビア」は、私の発明した特許出願・甘味技術が利用された。…(略)…

 「ポカリスエット ステビア」の市販によって、さらに広くステビアが知られることなった。また、食品メーカーに「レバウディオサイドA」の甘味質が、「ステビオサイド」よりも優れていることが認められた。
10.知的財産戦略(商標関係)
 知的財産戦略の特許以外の商標についても、将来、必ずレバウディオサイドAの時代が来ることを考え「レバウディオ」を出願・登録することもでき、それ以外にも「ステビオ」等も登録することが出来た。…(略)…

 「ステビアの品種」も大別すると5種類程あり、その中でレバウディオサイドAを高含有する品種は、将来的に注目されることが予想された。そのことから品種の差別化を図るために「和甘菊」の品種名を商標登録し、品種の差別化を図ることに備えた。…(略)…

 今でも残念に思うのは、「ステビア」という商標をズバリ、甘味料の名称で商標出願をしておけば、その当時の状況から商標登録できただろうと思うことである。

 一歩後退した思考で「ステビア」で出願せず、「ステピア」「ステビオ」を出願・登録したことが悔やまれた。
11.マスコミ戦略
 甘味植物ステビアとステビア甘味料製品については、マスコミ関係の個人的関係者の協力を得て行った。…(略)…

 特に、化学工業日報(兵頭英雄氏、志水進氏、武田英太郎氏)、週間フードウィークリー(社長 安田武雄氏、中島優氏)、食品化学新聞(落合慶一郎氏)、日本食糧新聞(大阪支社長 稲葉氏、森雅治氏)、食品新聞(大阪本社 市川氏)等によって理解・掲載され業界に伝えられ、食品業界のみならず、一般的にもNHKラジオ等で放送され大きな話題となった。

 これらの報道で、鉄鋼業界(八幡製鉄)から航空会社(全日空)まで関心を持ち、連絡・来社があった。…(略)…
 毎日、大手・中小企業以外にも、農協、農家等の照会対応に追われ、その反響は大変なものであった。…(略)…

 その頃、石油パニックがあり砂糖不足もあったことから、将に「甘いものにアリが群る」と云う様に、色々な甘いビジネス話も盛んにあった。…(略)…

 ステビア事業を起業化したことから、全ての事業戦略を自ら立案・実践しなくてはならず、365日深夜、また朝方まで仕事をする生活で、家族を犠牲にする生活であった。…(略)…

 塩酸ガス、ズルチンを全身に浴び、甘い汗を流し、空気と共に、これを吸って来たが、お蔭様で健康を損うことなく、社会人としてスタートして、特別に休むことなく全力で走り続けることが出来たことは、有難いことであった。…(略)…

 いろいろ戦略・戦術を考え、それをまとめている時などα波が出ている様な気持ちで、実に疲労感もなく充実していた。夢・目的を強く持つことが大切であり、その実現・達成は、強い意識に基づき積極的行動…(略)…
12.ステビアの国内栽培
 原料「ステビア乾燥葉」の輸入品は、実に夾雑物(茎、その他)が多く、非常に価格的にも高く、また、量的にも長期的に安定確保は困難であった。輸入品には「ステビア種子」も混ざっており、それをピンセットで根気よく稔実の種子を探し、これを発芽させることに成功した。
2〜3mmの紡錘形ステビア種子
大規模な種苗センター


 一方で、春日部薬用植物栽培試験場 西孝三郎先生からも「ステビア種子」の供与を受けることが出来、これを基に、日本国内での栽培を目指し苗作りの体制を整えるための行動を起した。

 「甘味植物 ステビア」は菊科多年草であることから、日本の気候・風土に適し、その栽培が極めて容易であることが判明した。挿し木で苗を多量で確保することが出来た。

 世界で初めて、1974年4月本格的栽培方法を確立することが出来た。原産地の栽培は極めて小規模栽培であり、日本国内での商業栽培の苗作り規模は大規模なものであった。

 丁度、その頃、石油パニックで砂糖不足の代替甘味植物として農林省北本農事試験場(住田哲也技官)等もその栽培試験をしていることが発表され、また話題となった。…(略)…

 農林省関係で作物としてステビアの研究栽培が始まった頃、既に、大量栽培法確立のマスコミ発表を行ったことで、農林省よりも進んだ状況であり、更に、食品の甘味源として市販していることから、未来の甘味植物として栽培の関心が高まった。

 大量栽培ノウハウを基に、国内の北海道・鷹栖農協(指導 鷹栖農業高校 佐藤与重郎先生)、宮崎県高原町(今西町長)をはじめとする栽培関係者と栽培契約・提携を行った。その頃のステビア種子の採取は、岡山県上房郡賀陽町 小野 健氏等の関係者に協力いただいた。…(略)…

 三菱油化(株)(企画開発部 山本敦氏、岡部俊雄氏、歌代雄七氏)が、脱石油のテーマ探しに来社された。その際、将来に向け是非、大手企業としてステビア事業をテーマとすべきと強く訴えた。その結果、関係先の三昌樹脂(株)(緑化事業部 蜷川尚氏)で栽培研究が始まり、鹿児島県大隈半島 志布志で本格的な露地栽培が飛松氏によって行われた。

 しかし、会社の事情によりステビア栽培等の事業から撤退することになり、その後を引き継ぐことになった。…(略)…

 地域特殊作物として「甘味植物 ステビア」の栽培は、定着化して、地域農業の発展に寄与した。安価な安定的且つ量的な原料が夏、秋の年2回収穫が出来ることから、ステビア栽培・原料からステビア甘味料の一貫体制で事業展開が整った。…(略)…
13.世界で初めてのステビア甘味料の開発
 「甘味植物 ステビア」の国内原料の量的確保に伴ないステビア甘味料製品の販売を積極的に行うが、現実的には、この「甘味植物 ステビア」の知名度はゼロに近かった。

 これまで業界雑誌等にも、全くと云ってもいいほど掲載されておらず、当時の植物図鑑等にも記載されていない植物であった。

 そのため、ステビアを説明すると「サルビア」は知っているが、「ステビア」は聞いた事がない等、…(略)…

 植物の説明と甘味料の特性・使用法等すべての資料を作成し、乾燥葉を口にして感じていただくことから理解を深めることをした。…(略)…
 …その頃の話しをすると、相当な時間が掛かるため略する。…(略)…

 興味と関心は持たれても、常に単なる話題に過ぎず、具体的に提案した甘味技術を採用していただくのは、人工甘味料時代からの人脈・商脈の関係会社が中心であった。食品メーカーの甘味源は主に砂糖であり、唯一の人工甘味料としてはサッカリンがあった。

 サッカリンは砂糖の400倍の甘さで、1kg400円〜500円前後で販売されていた。このような状況下で、ステビア特有の葉の臭い、茶褐色の色調が甘味料として使用する際に問題となった。

 また、それまで世界的にも食品甘味料として使用されていないことから、その科学的安全性の立証資料が無いため、特に大手食品メーカーの場合、その科学的安全性の立証データが必要であった。

 (後年、私の人脈の大阪市立環境科学研究所 山田明男先生、石橋武二先生等にステビアの現状説明をしたところ、「大阪市民でよくぞ頑張って来た。是非、安全性試験に協力しましょう」との返事をいただき、ステビアの科学的安全性試験を特別に引き受けていただくことになり、ステビアメーカーとして事業進出してきた関係会社で設立したステビア懇話会(現・ステビア工業会)で依頼し、公的機関ではじめてその安全性が証明された …(略)…)

 しかし、安全性試験を開始するに際して、使用するステビア抽出精製物の検体準備の段階で、品質上の大変な事態が起こり、私は寿命の縮まる経験をして、無事、安全性が立証されたときの喜びは、一生忘れられない思い出であった。

 ステビア甘味料製品の営業活動を、地道に根気良く重ねていくなかで、提案する甘味料技術が徐々に評価され、天然ステビア甘味料製品も化学的合成添加物・人工甘味料を嫌う食品メーカーに採用されることが多くなった。…(略)…

 1974年1月頃の工場内外の状況から製造員を増やすと云っても難しい時に、大阪経済大学学生 杉原正敏氏が勉学時間を調整しアルバイトで製造に携わり、辛い、苦しい等の仕事を担当した。従来の人員に若い人が一人加わるだけで、実に雰囲気的にも、また生産効率的にも高まった。…(略)…

 時間の経過と共に、営業の拡大に伴い、ステビア甘味料製品の生産量も飛躍的に伸び、これまでの人工甘味料の禁止に伴なう損失も補うことが出来る様になり、経営面も少し安定してきた。

 しかし、従来のエキス的な製品以上の品質が求められる様になり、さらに品質向上と原料処理能力が問題となってきた。
更に営業拡大を図るためには、新しい展開をする必要が生まれた。…(略)…

 この頃、「豊重(実弟・守田豊重氏 現 守田化学工業 代表取締役)が、守田化学で働きたいと云っているから、働かしてやってほしい。」と社長が云って来た。

 世の中で同族経営、また兄弟関係で、同じ仕事をする上での問題、難しさ、失敗例を聞き、良い例よりも悪例が多いこと等を説明して、猛反対した。しかし、どうしてもと父親的・個人的な生活理由で強く再三懇願されたため、社長の意向を受け入れ、就職することを認めた。

 社会人としての年数も浅く、業界の知識、経験も全くないため、即戦力としては難しい状態で、多忙の時に教育し、戦力となる様にするために、身内教育に努めるが、やはり、その難しさを感じた。

 余談だが(最近、よく同族・兄弟経営会社の中小企業関係者から悩みの相談を受ける時、今迄の私の歩んで来た体験を混じえて助言し、それが非常に参考になっている様だ。)…(略)…

 永年の信頼関係のある甘草抽出メーカー国策パルプ工業(株) 化成品事業部(前身は千代田興業(株)、後に山陽国策パルプ工業(株) 化成品事業部に、その後日本製紙(株) 化成品事業部→日本製紙ケミカル(株)に移行)清岡繁夫氏、佐々木和仁氏、菊池啓明氏、辰見正味氏等)に、ステビアの説明と展望・当社の現状を話し、甘草抽出精製設備・技術を利用して、当社の下請抽出業務をお願いし、提携を行った。

 私の目的を合理的・効率的に達成するため、大手企業の理解・協力を得られたことは、極めて、心強く、事業展開することが出来るようになった。その結果、委託のステビア抽出精製物も甘味成分40〜55%の粉末で、香味も少ない品質の粉末・抽出精製物が得られ、これを原料にエキス的な品質が改善された食品用の天然ステビア甘味料製品の製造・販売を始めることが出来るようになった。…(略)…

 このことによって、ステビア甘味料製品(ステビロンシリーズ)の拡販が可能となり、色々な食品メーカーに天然ステビア甘味料として提供できた。
 中小企業の事業展開として設備投資せず、大手企業に業務委託し、文字通り学んだ理想的な「柔ビジネス」「鵜匠ビジネス」を実践した。
14.ベンチャー企業の資金調達
 人材的には、創業者・社長、私(専務)、永年製造・包装等の業務を担った森下逸雄氏、吉田ナツエ氏に、新しく加わった守田豊重氏の五名である。何をするにも自社で誇れるものもなく、ステビア事業に取り組んでいることが唯一誇れるものであった。

 事業を拡大するためにも資金調達が必要であった。ベンチャー企業は、その当時「知識集約化企業」と呼ばれていたが、まだまだあらゆる面での理解もなく、金融・行政関係においても、その方向・必要性を認めるものの、具体的な理解と支援策も無い状態であった。現実的資金調達は、不動産等の担保が当然必要であった。

 しかし、現実的にそれに相応しい担保もなかったので、私は人的財産と知恵・特許・商標等の知的財産を武器にして、この現実的な資金調達問題を解決した。

 その方法として、かねてからの人との出会いと絆から人的財産を作ってきた中で、マスコミ関係者の協力を得て、マスコミ戦略を行った。その具体的な方法は前にも述べたマスコミ関係者の協力とその掲載記事等を最大限有効利用した。…(略)…マスコミで仕掛け、市場を動かし、その成果を…(略)…

 更に、数多く発明した技術を特許出願している内容等の知的財産を最大限利用して、取引銀行に情報提供し金融・資金担当者にも、この無体財産の価値と展望について理解・評価していただける様に、全力を傾けた。

 その際、最も心掛けたことは、相手の立場に立っての情報提供、行動(身)、言葉(口)、意(心)を一致させること、動かすためには、人の心の動きを変えること。人の心を変える方法として、警戒心・関心・安心・得心・決心(決断)の心の流れに基づいて対応すること。

 報告・連絡・相談を速やかにすること、安心・信頼・尊敬に移行する人間の基本的諸事項を、気づいて、感じて、行動すること等。…(略)…

 余談だが(現在、新製品・新技術等の相談を受けたときは、この時期の実践的戦略経験等に基づいて対応し、社員もお客様の発展をブレーン的存在で支えている。)
15.特許庁に対して
 私の発明技術に対して、特許庁においてもステビアに関する情報もないことから審査結果、特許拒絶されたため、特許庁にステビアの品種の葉を持参し審査官 佐伯裕子氏に、葉を口で味わっていただき、その技術を説明しステビアに関して情報提供を行った。

 この特許出願技術の上京説明の必要性は、柳野特許事務所 所長 柳野隆生先生の、「世界的にもステビアの情報は余りなく、恐らく特許庁も理解出来ないので、取り敢えず拒絶手続をしたかも知れない。やるだけやってみては・・・」と「守田さんが直接特許庁審査官を訪ねて、説明すれば、理解が得られるのでは・・・」との助言で、私は上京し特許庁を訪ね説明して、その目的を達した。

 弁理士 柳野隆生先生(現在 柳野国際特許事務所所長・(株)ノスクマードインスティテュート代表取締役)は、知的財産戦略とベンチャービジネスの育成・経営戦略に対して適切な助言・指導と豊富な実績を持っておられ、私にとって極めて力強い理解者である。

 金融関係・三菱銀行今里支店及び本店の理解も得られ、特に不動産的(有体担保)がなくても融資が受けられることが出来た。このことによって経営資金的にも楽になり、将来に対する投資に向け動くことになった。

 従来の社屋は、外観的にも見ただけでも信用をなくす様な、一部二階建てのセメント瓦の平屋木造であったため、栽培関係者、また初めて来社された人も、その建物の外観を見て、印象的にも事業展開に支障があると考え、社屋建設をすることになった。

 マーケティング戦略、知的財産戦略、マスコミ戦略・金融戦略等が期待通り出来たので、念願の社屋を1975年6月に完成した。

 社屋が完成すると社長以下専務の私、守田豊重氏、吉田ナツエ氏、森下逸雄氏計5名では、将来の事業展開に支障が生じるため、新卒者を募集することになった。

 さすがに、ステビアと云う事業と社屋が完成すると応募者も多く、その中から近畿大学理工学部から男性1名、武庫川女子大学家政学部、樟蔭女子大学家政学部から各1名、計3名を採用した。・・・(略)

 私の社会人第一歩の時と全く異なる、夢のあるテーマと新しい社屋での新卒者の第一歩である。私の第一歩は、何時かは自社ビルでも建てられる様な夢を抱いても、全く現実から考えられなかったが、その夢が実現し、若い社員を迎えることは想像も出来なかったことであった。
16.海外でのステビア栽培テスト
 1976年頃から(株)山善(貿易部 課長 大野氏、藤田氏)との出会いからステビア事業の海外戦略を開始した。ステビア苗・種子等を基に中国、タイ等の東南アジア及び北米の栽培定着化を図るために、1977年 アメリカイリノイ州の Suzuki International,Inc.(Stevia,Inc.,Fred K.Suzuki) と提携した。

 それぞれの国の甘味資源として、定着栽培試験が実施され、定着化が可能と判明し、ステビアが甘味資源となることの確証を得た。

 これまで、永年ステビアは食品甘味料として、また甘味資源としてそれぞれの国等において栽培定着化等がされていないことに不思議さを感じ、「君のために世界の誰もが甘味料としての事業をしなかった・・・」「神様が君のために遺された贈り物だ・・・」等と言われたことを思いだし、いつしか、その義務感と責任を感じる様になっていた。

 今日、中国での大規模栽培以外に、アメリカでも大規模に栽培され、ハーブとしての市場がますます拡大していることは、非常に喜ばしい限りである。
17.ステビア甘味料の普及
 ステビア甘味料製品を初めて企業化し製造販売した時は、その甘味技術を説明し理解いただくのに大変苦労したが、精製され品質向上したステビア甘味料製品は、食品メーカーの協力を得て、従来の天然甘草甘味料(グリチルリチン)と、異なる非常に優れた天然甘味料で、全く問題なく、将来性のあることが理解され、ますます販路拡大を図ることができた。

 その中で、積極的に理解し採用いただいた先は、永年、私がこれまで甘味技術と調味技術の提案をして、個人的信頼関係のあったカモ井食品工業(株)(鴨井精一氏、石井正昭氏、城坂剛氏、西井良氏等)(株)大塩するめ(難波正城氏、内堀和信氏等)をはじめとする佃煮・珍味関係、その他、採用メーカーとして和歌山県下の南高梅 加工梅関係、(合名)上澤梅太郎商店(代表社員 上澤梅太郎氏)をはじめとする漬物メーカー、橋栄醤油みそ(株)(社長 橋本栄一氏)等の醤油味噌メーカー関係であった。…(略)…

カネボウ食品(株)のステビア葉末入りプレイガム
(1987年発売)
 私が開発したステビア葉を使用した「チューインガムの製造法」の特許技術を企業化することに取り組んでいただきたいと、カネボウ食品(株)食品研究所(井口圭二氏)に申し入れたところ、井口氏が社員生命を賭けて「プレイガム」を製品化すると言われたときは、感激した。

 このフーセンガム「ステビア入りのプレイガム」であることを、テレビコマーシャルで積極的に流され、一般の方にも、ステビアという植物が知られることになり、従来にない持続性の甘味が評価され大ヒット商品になった。

 このテレビ効果で、大手食品メーカーもステビアに関心・興味を持ちながら、消極的であった関係者も積極的に利用検討を開始した。このカネボウ食品(株)井口圭二氏等のお蔭で、ステビアが食品メーカーまた消費者に認知いただけることとなり、その功績は大なものであった。…(略)…

 他の天然甘草抽出精製メーカーもステビア甘味料の将来性を認め、「甘味植物 ステビア」を栽培契約し、原料確保に向けた事業展開を始めた。また抽出精製し、ステビア甘味料製剤を企画・製造販売する動きが活発化してきた。

 しかし、抽出精製するには、自ら原料を契約栽培等をして確保しなければならないという特殊性があり、栽培農家との信頼関係を構築したり、また、品種的・甘味成分の分析定量法等、数多くの課題を検討・解決しなければならなかった。

 また、ステビア関係の特許出願内容の障害となり、一般的な事業展開のようにはスムーズに行かなかった。…(略)…

 人員的に増えても相変わらず、私一人で全ての事業戦略を行っていたが、他社の動向には不安が全く無かった。それは、ステビア事業展開経験と知的財産等において誇るものがあり、自信が有ったからである。

 営業に際しては、「ステビア乾燥葉」と「プレイガム」「ステビアのマスコミ報道記事」これだけで食品メーカーの担当者の理解が得られたので、以前のようなことがなくなったので、非常に営業説明も楽になった。

 しかし、甘味料として使用する場合の甘味コストが砂糖に比べて高いことから、これを改善する必要が生じた。

 その為には、自社での抽出精製等を行い、よりコストダウン及び将来に向けて工場建設が必要となった。

 このような状況を想定し、研究体制とその人材を確保したことから、抽出精製技術確立に向けて研究を行うが、植物からの抽出法の知識・経験等の技術蓄積もないことから、その確立に困難を要した。…(略)…

 そして、やがて他から入手したステビア抽出精製技術情報を参考に、工業的製法を確立することが出来、新見市市役所及び地元の宮脇邦夫氏の協力を得て、創業者の出身地 新見市に工場建設を着手し、1977年11月に完成した。

 新見工場は宮脇邦夫氏、河津豊氏が工場責任者、河津輝美氏が事務責任者となり、その他若い森本繁信氏等の従業員が集い、事業の誇りと夢を膨らませて良品生産に努めた。…(略)…

 これで、故郷に何らかの錦を飾ることが出来、創業者の夢も叶えられ、また地元の発展に寄与できることを大変喜んでいた。…(略)…

 工場の完成によって、世界で初めて「原料 甘味植物ステビア」の栽培から抽出精製までの一貫生産体制が確立し、人工甘味料メーカーから唯一の天然ステビア甘味料専門メーカーとなった。…(略)…
18.ビジネスの目標達成・夢実現
 素晴らしい人生の出会いの中で学び、「ステビア」と云う活字と出会い、その甘味植物の作物としての定着化に取り組み甘味資源の創造に成功し、原料確保と甘味料製品の製品化した。また新しい甘味成分レバウディオサイドAを知見して、多くの技術を発明し、特許出願等を自ら行い、知的財産を武器に事業展開を行うことが出来た。

 そして、食品加工等の甘味料として国内外に認知、また、普及させ社会貢献することが出来た。
 文字通り、点から線、線から面までの展開で事業を完成させ、更なる事業展開の優位性を確保する戦略をも残すこともできた。

 町工場でスタートし、試練のお蔭で素晴らしい未知のテーマと、素晴らしい人達と出会い、支えられた14年間であった。

 このテーマをやり遂げたことを自らの人生区切りとして、後輩に社の発展を託し、私は更なる分野で食品メーカーの発展に寄与するため、1982年4月8日 守田化学工業(株)を外部から発展を見守る立場(保有株式24.1%は、現在、全株を売却しております。)となり、37才で退社。同年10月に新しい第2のビジネス人生としてモリタ食材開発研究所を設立し歩むことになった。

 創業者は、「有難う」「有難う」の心・言葉を家族に伝えながら生活していたが、2009年8月27日 97歳で人生の幕を降ろし、私も全く悔いのない孝を尽した満足感と感謝の「有難う」の心・言葉で見送った。

 私の甘いビジネス人生・14年間であったが、この間、人生の苦味・塩味・酸味・旨味・甘味を味わうことが出来、少しは人生の味も分る人間になったように思える。

 食品の美味しい味も、基本味(甘味、旨味、塩味、酸味、苦味)が、それぞれの相乗効果を発揮しなければならないものであり、また、味以外の厳しい経済・社会の中で会社が発展するためには、社員一人ひとりの成長と社外の個性・特長のある会社等との連携による相乗効果で、「四方善」の共存共栄を図らなければならないと考えている。

 そのために、これまで経験したことで新しい出会いの中で、お役に立てれば、少しは借財の返済・報恩に繋がると考えている。これからも私自身の成長と、会社の成長を図るために、新しい出会いのご縁を求め続けて行きたい…(略)…
終わりに
 この足跡に関わった会社並びに関係者のお蔭で、日本また世界の新しい甘味資源として普及することが出来たもので、その関係者の方々の氏名を感謝の意で挙げましたが、このことにより、ご迷惑をお掛けしたとすれば、心からお詫びいたします。

 内容は、抜粋してまとめたもので、表現・理解しにくいことも多くあると思われますが、お許しいただきたいと思います。
 自らの半生記をまとめると、更に語る内容が多岐にわたるため、甘味料の歩跡を中心にしたものであります。
株式会社 モリタ食材開発研究所の事業・特長
 これまでの「ステビアのパイオニアとしてのステビア甘味技術」をはじめとする「天然・合成系甘味料の甘味技術」で、「味の差別化を図る調味技術」、また「知的戦略・戦術の知識・経験・知恵」等は、社員一人ひとりが継承している。

 「個人の成長なしに、会社の成長なし」の理念等を基に、会社一丸となって「お客様から安心・信頼・尊敬される企業として、食文化の発展に寄与し、社会貢献する企業」として2011年で、29年を迎え無借金経営で事業展開を行っており、これからも知的資本・品性資本を財産とする企業体質の強化を図り、個性的な企業で大きな社会的貢献を目指し歩んでいる。
ステビア甘味料と甘味技術
 当社は、永年にわたる「ステビアの品種」及び「ステビアに含まれる甘味成分ステビオサイド・レバウディオサイドA」の甘味成分の特性を熟知しているため、これを有効利用するステビア甘味技術を基に、新しい時代のニーズに応える美味しい味づくりのための豊富なテクニカルデータベースを構築している。

 味づくりには、甘味料が必要不可欠であり、その中でも、自然界に存在するステビア甘味料は、天然志向からもますます注目されるものであるため、現在もステビア優良品種(和甘菊)等を原料とした中国産抽出物を基に独自のステビア甘味料製品を製造販売している。

 また、他の天然甘草甘味料(甘味成分グリチルリチン)、人工・合成甘味料(スクラロース、アセスルファムK、ネオテーム等)と共に最適な甘味付与技術を提案している。

 食品の味は甘味料・調味料の選択が特に重要であり、そのために甘味・調味技術で、食品メーカーの味の差別化を図るために研究開発提案型企業として、また心の味・技の味づくりの知恵袋会社として、お客様の発展を支える社外ブレーン的立場で貢献することに努めている。
異業種への展開と交流ビジネス
 またステビアに含まれる有用成分等の農業分野をはじめとする他分野への用途・研究のため「日本ステビア研究所」を設けている。

 更には、異業種への商品企画提案を図るために、12の幸せを贈る「ダーズンローズ」の普及を目指して知的財産を基に社会貢献を行う「ダーズンローズ倶楽部」を設立し、事業展開を行っている。
ステビアの現状と将来性・助言
 現在「甘味資源植物ステビア」は、日本国内で商業栽培され、甘味料の原料となる量は栽培されていないのが現状である。

 ステビアの栽培は、栽培コストの安い中国が主力で、圧倒的栽培面積と数量を誇っている。ステビア抽出精製物も中国で抽出され、主に、日本国内に輸出され、近年欧米等にも輸出されつつある。日本国内では、中国の抽出精製物を一部再精製等する必要がある場合は、精製され、純度を高め、品質向上をする場合もある。

 日本で誕生した植物性低カロリーダイエット・ハーブ甘味料ステビア甘味料は、今では中国、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、メキシコ、韓国、台湾、香港、マレーシア、スイス、ロシア、オーストラリア、ニュージーランドをはじめとする諸外国の甘味資源、また、食品甘味料、家庭用テーブルシュガーとして定着成長し、ますます人工甘味料と異なる自然の甘味として安心・安全な食品の甘味源として注目されている。

 特に、その中でもレバウディオサイドAは、最も自然界の中にある良質な天然成分として脚光を浴びている。

 その事業展開に際しては、「ステビアの品種」「ステビアの甘味料の品質の問題」を十分に理解しなければ、無駄な投資で企業的損失が発生することがあるので、十分理解の上、効率的・合理的に「資源問題」「環境問題」「食の安全性」「自然・天然志向」等から考え、ステビアが更に世界の大きな甘味資源になる様に取り組んでいただきたいことを願っている。

守田悦雄 半生記(抜粋) トップ頁へ